おさんぽ 93    2016.04.13.

 日本一周の一部かも知れませんが、日帰り等で少し遠くにいったおさんぽ、新規開拓スポット等のご紹介です。
 ■ 写真容量の増加に伴い、表示が出来ない傾向があるので分けました。

   ● シベリアンハスキー 「めい」ちゃんのおさんぽ avec 「まい」 (ブログ)にも別バージョンがあります。  

 


 2016年04月10日(日)  06:30
  昨夜はキャンプ場ルールに従って21時ごろには就寝、ぐっすり休んで早起きしました。
  コンロの灰を片付けて、椅子、テーブル、テントなどを収納して出発準備、今日は残りの能登半島観光地を回る予定です。


 ●石川県健康の森オートキャンプ場
    昨夜の宿泊者はオートキャンプサイトは家を入れて2組、フリーサイトは3組でした。(ログ、コテージは中が見えないので?)
 
  AM5:24、早起きしてさっそく朝のお散歩開始します。
 
                           バーベキュー舎               コテージ
 
                             フリーサイト
 
                           朝ごはん、まだ−−−
 
     お母さん、デザートは?          お花見団子               完食                  撤収完了
 
  受付にゴミを出しに行ったら、芝生広場に子供もいないのでおさんぽ
 
       桜も満開です。                                                      最後は松ぼっくり  

 ●きじ
  健康の森からの道で、初めて野生のきじと遭遇しました。
  鹿、イノシシ、イタチ、リス、タヌキ、キツネ、カモシカ、子熊等との遭遇はありましたが初めてです。
 
  あまり人を怖がらないので、比較的長い時間、近くでの撮影が出来ました。
 

 ●道の駅 桜峠
   地図で奥能登の真ん中を探してみると、能登で唯一海のない所が 能登町当目で、奥能登の動脈ともいえる珠洲道路沿いのキリコの
 形をした看板が目印となっています。
 
  こちらの桜は咲き始めで、殆どはまだピンクのつぼみでした。
 
  道路の両脇には桜の木々がありますが、少しだけ標高が高いせいか、まだつぼみです。
 

 ●恋路海岸
  波が穏やかな恋路海岸は伝説が残る海岸で、その昔、深い恋仲となった2人の若者、鍋乃と助三郎がいました。鍋乃に思いを寄せる
 恋仇の男の罠のため、助三郎は海の深みにはまって命を落としてしまいました。
  鍋乃も助三郎の後を追って海に身を投げ死んでしまうという悲しい恋の伝説から、いつしか「恋路」と呼ばれるようになりました。

  この2人をしのぶモニュメントや鐘、銅像が設置されています。沖には弁天島が浮かび、恋路海岸から見附島(珠洲市)までの3.5キロの
 海岸線は、「えんむすビーチ」と呼ばれています。
 
  鍋乃と助三郎が夜な夜な会っていたとされる弁天島です。干潮時には歩いて渡ることができます。
 
 
  恋路に残る伝説の二人・鍋乃と助三郎の像です。            地元のおじさんが「めい」「まい」を見つけ、車を止めてご挨拶。
 

 ●恋路駅
  恋路駅は国道249号線沿いにある、廃線となった、のと鉄道の廃駅では、一番観光客が訪れているのではないでしょうか。
  当時は「のと恋路号」だけですが、無人駅としてはめずらしい急行の停車駅でした。
 
  駅舎だけはまだ残されてるようです。

 <奥のとトロッコ鉄道>
  恋路駅から宗玄トンネルまで約300mの小さな小さな鉄道。それが「奥のとトロッコ鉄道(愛称:のトロ)」です。
  2005年に廃線となったのと鉄道能登線の恋路駅跡に、トロッコ鉄道に乗れる観光スポット奥のとトロッコ鉄道「のトロ」が2013年4月に
 誕生しました。恋人の聖地となっている恋路海岸や、縁結びーち、軍艦島こと見附島からも近くカップルや観光客、家族連れらの利用を
 見込んでいます。
 

 ●見附島
  島の形が軍艦に似ているところから別名「軍艦島」とも呼ばれる高さ28mの奇岩で、能登のシンボルとしても有名です。
  また見附島から昇る朝日は絶景で一見の価値があり、浜辺には縁結びの鐘があり、その名も「えんむすびーち」と呼ばれており、空気
 の澄んだ晴れた日には、はるか遠くに立山連峰が見られ、夜にはライトアップもされます。

  住所   珠洲市宝立町鵜飼
  営業時間 ライトアップ 3月〜9月 19:00〜22:45頃 10月〜2月 17:45〜22:30頃
  駐車場:無料(約200台)
 
  大学生のころ初めて石川県にきてキャンプしたのがここです。
 
  桜も満開で、何度も来ていますが、こんなきれいな景色は初めてです。
 
  学生のころは仲間と軽自動車で大阪から2日掛けてきましたが、良い思い出です。
 

 ●りふれっしゅ村鉢ヶ崎
  青い海と白い砂浜が美しい海水浴場は、県内有数の透明度を誇り、夏は連日大勢の海水浴客でにぎわいます。
  周辺には、ホテルをはじめ、オートキャンプ場、ケビン、野営場など、多様な宿泊施設があり、充実したアウトドアライフが楽しめ、テニス
 コートや野球場などのスポーツ施設や珠洲焼資料館のような文化施設、露天風呂が自慢の温浴施設などがあります。
 
 

 ●聖域の岬
  石川県能登半島に日本三大聖域の一つである聖域の岬とよばれる珠洲岬があり、海流が交じり合い”気”がある場所として、数々の
 伝説が残されていました。
  珠洲岬は石川県能登半島の北東端の禄剛崎、金剛崎、長手崎などの岬の総称をさし、金剛崎は【聖域の岬】とも呼ばれています。

  住所   石川県珠洲市三崎町寺家10-11
   TEL0768-86-8000 (よしが浦温泉ランプの宿)
   駐車場あり
   料金展望料  500円  時間  9〜16時 無休
 
  此処には幹線道路から少し外れ、海側に進みます。(昔はランプの宿に向かう細い道路しか無く、行く気がしなかった。)
 
  到着、岬ですので海風が季節がら心地よく、良い所です。
 
  下に見えるのは「ランプの宿」、宿までは急な勾配の坂道で距離は数百メートルですが、送迎バスが出ます。ワンコは泊まれません。
 
  恒例となった写真撮影、「めい」、「まい」は3回目のはずですが、まだ撮影には慣れていません。
 
  案内所、売店の店内の様子
 
  昔に比べると道路、駐車場もきれいに整備されアクセスは良くなりました。
  ただ、駐車場からランプの宿までは宿の送迎車と徒歩のみのようです。
 

 ●道の駅 狼煙
  狼煙の禄剛埼灯台近くにある交流施設狼煙(道の駅 狼煙)では、地元で採れた新鮮な食材の直売や、珠洲特産の「大浜大豆」と珠洲
 天然にがりを使用した地豆腐を製造し販売してます。

    〒927-1441   珠洲市狼煙町テ-11
    営業時間 8:30〜17:00
    定休日 年末年始
    料金 入場無料
 
  好みによりますが、こちらの豆乳ソフトクリームはお勧めできません。
 
  この道の駅から禄剛埼灯台へ上る遊歩道の入口があります。
 

 ●禄剛埼灯台
  能登半島の最先端で、ちょうど外浦と内浦との接点にあたる所で、ここは「海から昇る朝日と、海に沈む夕陽」が同じ場所でみれること
 で有名です。明治時代にイギリス人の設計で造られた白亜の禄剛埼灯台で。無人のため灯台内は見学不可ですが、年に数回一般公開
 があります。

  灯台までは結構な上り坂で、昔は距離が3倍近くあり)ましたが、新しいルートが作られて距離が短くなりました。(途中に休憩茶屋が
 あったほどです。)  距離が短くなった分、坂の勾配がきつくなっています。
 
  時間を図ります。9:39 スタート。
 
  到着は 9:46 (約7分)。  岬まで来ると広い芝生広場があります。
 
  こちらの桜も満開です。
 
  Aランクの保存灯台に指定されており、「日本の灯台50選」にも選ばれています。
 
  周辺は能登半島国定公園に指定されていて、海抜 50 m ほどの断崖絶壁が続き、崖下には「千畳敷」と呼ばれる海食棚が見えます。
 
                          岬の公園にあるオブジェ
 
  帰り道の風景   広い芝生広場があります。
 
  遊歩道のお花も今が良い時期なのか、きれいです。
 
                                            もう少しで駐車場(道の駅 狼煙)
 
  お疲れさま、お父さんも車で少し休憩できました。
 

 ●奥能登絶景海道
  大谷狼煙飯田線(県道28号)は「奥能登絶景海道」として日本風景街道に登録され、断崖地形からなる勇壮な外浦と、波穏やかな内浦
 に囲まれる能登半島の海岸線を周遊し、奥能登の歴史文化や人々との触れあいを楽しむことができます。
 
 
                                                 日本海の強風を防ぐ「間垣(まがき)」もありました。

  <間垣(まがき)>
   冬の日本海から吹きつける季節風から家屋を守るために、大沢・上大沢地区では高さ約5mの苦竹を家の周囲に並べて垣根を作り、
  この垣根が「間垣」です。
   間垣によって冬は暖かく、夏は涼しく過ごすことができます。11月〜1月にかけて寒気が日本海から入り込み、強風が集落を襲う為
  毎年11月上旬には間垣の補修が行われます。
 

 ●ゴジラ岩  能登半島
  ゴツゴツした黒い似たような岩が点在する海で、標識があってもゴジラ岩を発見するのはなかなか難しくて、しばらくじ〜っと海を眺め
 ていると、千畳敷の上でどっしりと腰を落として立つゴジラの姿を見つける事が出来ます。
  角度によってはゴジラが海に向かって吠えているようにも見えますが、大きさは身長約3、4メートル。少し海岸からは離れているので、
 つい見落としてしまいます。
 
  海岸の岩をよく見ていると、だんだんと色んなものに見えてきたので、名前を付けてみました。
 
             亀岩?                       イルカ岩?                     サザエ岩?

  何度も来ましたが日が暮れると、そんなに大きくないので、ゴジラ岩を見つけるのは困難です。
 

 ●奥能登塩田村   (道の駅 すず塩田村)
  能登地方に400年以上前から伝わる「揚げ浜式」による製塩を行いながら、その伝統を伝えるために造られた塩の総合資料館で、美し
 い景色を眺めながらの休憩やご当地土産の購入、揚げ浜式製塩の体験(要予約)など、さまざまな用途で利用できます。

  住所    〒927-1324 石川県 珠洲市 清水町1-58-1
  電話番号  0768-87-2040
  【資料館入館料】  大人100円,小人(中学生以下)50円
 
 
  大事に使っていた能登の塩が無くなったので、購入しようと訪れました。(2人で2個購入) おはぎも良い塩梅だそうです。
 

 ●垂水の滝
  輪島市と珠洲市の境界にある落差30mの滝で、断崖から海へと一気に流れ落ちる様子は迫力満点です。
  春には、滝の上流で雪割草が咲き、冬の風の強い日は、海からの季節風によって水が吹き上げられ、水が落ちてこないという珍しい
 現象が見られることもあり、別名「吹き上げの滝」とも呼ばれます。
 
  道路を走っていると目の前に現れる崖から海に落ちる見事な滝、お見事です。
 

 ●窓岩
  冬の厳しい日本海の荒波をまともに受ける男性的な荒々しい海岸線が続く曽々木海岸のシンボル的な存在として板状の岩の真ん中
 に直径2mほどの穴が開いている奇岩「窓岩」があり、冬季は波の花が大量に発生します。
 
                                                                    みかん飴、おいしそう
 

 ●下・時国家
   重要文化財 時國家 (下時国家)
    〒928-0205 石川県輪島市町野町西時国 TEL・FAX 0768-32-0075
     開館時間: 午前10時〜午後4時
     開館期間: 4月〜11月の土・日曜日、5月3、4、5日
     休館日: 月〜金曜日 5月28日、29日
          12月〜3月(冬期休館)
     料金 500円

  昭和38年に国の重要文化財の指定を受け、お客様への一般公開を続けてまいりましたが、
  平成28年3月31日をもちまして現状の公開を変更させていただきます。
  平成28年4月1日より11月30日までの間は土、日曜日のみ開館。
  月〜金曜日は休館(ただし5月3、4、5日は開館、5月28、29日は休館いたします。)
  平成28年12月1日より翌年3月31日の間は冬期休館いたします。

 <歴史>
  石川県輪島市町野町にある時国家の邸宅で、能登に流された平時忠の子時国を祖としたと伝え,寛永(1624年―1644年)ころに上時
 国,下時国の2家に 分立しました

  輪島の市街地から、約19km、特徴的な岩肌を見せる岩倉山の山麓に周囲の風景融け込んだ茅葺きの2つの旧家・上時国家と下時
 国家が建っています。
  町野平野を見下ろす高台に建っているのが上時国家で、入母屋造の茅葺の大屋根は、棟が高く軒が深くなっており、一段下には桟瓦
 葺の庇が四方に廻り、正面には唐破風造りの玄関を設けている北陸地方でも最大級の規模を有する江戸末期の民家建築です。

  それより少し町野川下流側にある見るからに歴史を感じさせる古い佇まいの家が下時国家で、入母屋造茅葺の屋根、書院造の座敷、
 40坪の土間。柱には大黒柱に欅材、書院の座敷に杉材、それ以外は地元のアテ材を使っていて、こちらは江戸中期に建てられた大規
 模民家建築です。

  これらの2つの旧家は、源平・壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門のうち、「平家にあらずんば人にあらず」と奢った言葉を述べた事で知ら
 れる武将・平大納言時忠の末裔と呼ばれる両時国家の2つの家で、約800年の歴史を受け継ぎ、上時国家は、24代、下時国家は、23
 代を数えます。

  平時忠は、平安時代後期の大治2年(1127)に平時信の子として京都に生まれ、姉の時子は、平清盛の妻となりました。妹の滋子は後
 白河天皇の后となり、建春門院と称し後の高倉天皇を生むことになります。
  高倉天皇は、時子と平清盛の間にできた徳子を中宮とし、安徳天皇を産み、徳子は、それにより国母となり建礼門院と称しました。

  こういう訳で平時忠は、平清盛の小舅として権並ぶ者なき勢威を示すようになり、官位も、中宮大夫、検非違使別当、左大弁などを歴
 任し、権大納言正二位まで昇進しました。

  平時忠は、平清盛亡き後、平清盛の妻の弟だったことから、平家一族の纏め役として実質上の頭領でありましたが、壇ノ浦の戦いで
 平家一族が敗れ海の藻屑と消え去った際、時忠は生きて捕らえられました。
  時忠は、三種神器の神鏡を義経に奉じ、また、娘(蕨姫)を義経に献じて身の安全を図り、助命されることになりました。
  ただ時忠の娘婿となった情報が鎌倉に届くと、源頼朝は今後一切義経の命令に従うなという密命を畿内及び西国の御家人達に書き
 送っています。

  平時忠が流罪になったのは文治元年(1185)9月23日で、配流地は奥能登の現在の珠洲市大谷の地であり、時忠は、小舟に乗って
 、須々(珠洲)の浦の船着き場(現在の江の澗)へ到着しました。
  その約40日後に、頼朝は、義経追討の院宣を得るのであり、翌年の6月に五畿七道へ義経の追討令を出すことになり、平時忠は波乱
 に富んだ生涯をこの配所大谷の地で閉じました。

  没年は、文治5年2月(1189)と元久元年(1204)4月の2説の言い伝えがあります。
  義経の能登における伝説では、文治3年頃、妻(蕨姫)の縁を頼って、この大谷の地に妻を含む一行と訪れたことになっていますが、
 義経と時忠が会い、また蕨姫と時忠も最後の親子の対面をしたのかもしれないという真偽の程はわかりません。

  時忠のあとを継いだ時忠の子・時国は、平家の子孫ということもあり、牛尾という山の中にしばらく身を潜めていましたが、頼朝は義経
 追捕に躍起で時忠の子孫などに感心がないようなので、町野の地に移り、館を構えたといわれます。
  町野川下流地域に勢力を伸長し、代々の当主の努力によって土豪となり、近隣の村々を統治し、鎌倉幕府の世にあって、平の姓を名
 乗り続けることに支障を感じたので、そののち、実名の時国を姓とするようになりました。

  上と下に分立する以前の時国家は、今の時国家より少し上がった町野川の河原にあり、その頃の時国家は母屋の間口が約50m
 もあったそうです。また室町時代の文明15年(1483)頃に立てられたとの伝承があり、その他に土蔵や酒蔵、厩舎、稲蔵などもあり、さら
 に曽々木海岸の浜には塩蔵もあったことが文書や絵図によってわかっています。

  当時、この地方には何人かの名主がおり、時国家もその一人であったし、また全体を統括する役割(荘園の代官など)を担っていたと
 も考えられていますので、巨大な家と蔵は個人用だけではなく、公的な意味も持っていました。

  次のような記録も残っています。
  中世から戦国末期にかけて時国家があった下町野荘は、町野川の氾濫がしばしば繰り返され、戦国末期の元亀3年(1572)にも、下流
 域右岸の下町野荘内福光名の川端の田地が、洪水によって押し流されて、福光名の年貢進納ができなくなっていました。
  このため当時下町野荘を領有していた、戦国大名能登畠山氏の重臣・長綱連は、当地の時国四郎三郎に対して、先に光福庵なる寺
 庵に寄進してあった福光名のうちの土地を没収し、それを諸役皆免の地として、時国に与える代りに、福光名の年貢は、台帳の規定に
 基づき、時国が責任をもって納めるよう命じています。

  当時、時国家は、町野川下流域右岸から山間部にかけての地にあたる、下町野荘岩蔵の年貢米を収納する御蔵の管理責任者で、
 領主長氏の一族被官で下町野荘の担当者であった仁岸与左衛門尉の許に、年貢米を送り届ける任務を帯びた、名主の流れをひく下町
 野の土豪であったようです。
  戦国末期の天正3年(1575)6月、時国四郎三郎が管理していた年貢輸送用の御用船の梶(かじ)を、曽々木の浦の小刀祢が盗んで売
 却した事件が起こり、この時、時国は寛容な処置をもって対応し、これを契機に小刀祢は時国の被官となり、曽々木浦に時国の勢力が
 及ぶようにもなっていったようです。

  江戸時代初期の時国家の石高は三百石で、下人の数は150人から200人ほども抱えていたようで、広い田畑を耕作する他に、製塩、
 木炭、鍛冶、石切、桶細工などと幅広い業種を手掛けていたと考えられています。

  特に時国家が「目」を向けたのは海で、今は町野川は真っ直ぐ海に注いでいますが、昔は河口近くで大きく蛇行していて「潟湖」になっ
 ており、船の出入りが容易だったと考えられており、現在、曽々木集落の中に皆戸(港)という地名が残っていることでも推測できます。

  そんな土地に、時国家は八百石積みから千石積みの大きな北前船を持ち、大坂から日本海を経て北海道の松前まで航海して、巨万
 な富を得ていて、その財力で金融業にまで手を伸ばし、海での交易を重要視し福原を築いた清盛同様、源氏とは違い常に海に感心を
 抱き続けた平家の末裔らしいなという感じがします。

  12代・時国藤左衛門の代、下時国家が建てられた寛永11年(1634)の時に、両時国家は分家したと推定されていて、本家を上時国家、
 分家を下時国家と称し、時国藤左衛門は、新しく建てた家に末っ子の千松とともに移り、母屋は長男の次郎兵衛に譲りました。それには
 深い理由があったようです。

  幕府と深い関わりをもつ大名の土方家が能登各地の所領を得たことも原因の一つのようです。関ヶ原の合戦で前田家を味方にいれた
 い徳川家康は、2代目前田家当主・利長と従兄弟関係にあった土方雄久を送り、雄久はこの大任を無事果たして、前田利長を味方にし
 ます。家康は関ヶ原の合戦で勝利した後、雄久に越中新川郡に一万石を与え、報いたと伝えられます(ただし時期などには問題があり)

  この越中の土方領が慶長11年に(1606)に能登(61ヶ村→後)62ヶ村に分散され、山崎村(七尾市)に陣屋が置かれました。その一つに
 時国家のある時国村が選ばれたのでした。この土方領は、雄久から雄重・雄直と続き、4代目の雄隆(かつたか)は、延宝9年(1681)、自
 分の領地の一部を弟の雄賀に与え、雄賀はその一部(150石)を次男の長十郎に分け与えました。
  こうして、能登の土方領は、雄隆(1万2千石)・雄賀(850石)・長十郎の3人の領地に分けられました。
 (参考:私のHPのコンテンツ「七尾における天領」)

  ところが雄隆がお家騒動を起こし、貞享元年(1684)、雄賀領はお家断絶の憂き目に会い、幕府に没収されて、天領になりました。幕府
  は、下村に代官所を設置し、手代を常置させ直接支配しました。時国家の保有する三百石のうち、土方領が能登に出来た際、二百石
  は土方領(後に天領となる)に組み込まれ、前田領は百石となったのです。

  時国家は分家することによって、領主の警戒感を和らげると同時に、保険を掛けた様な効果をもたらし、このようにして現代に至るまで
 は双方が肩を並べて能登の名家として、栄えることができたのでした。
  肥大になった家が、時の支配者から取り潰しになった例は多くありましたので、難しい時代の流れを見通して、藤左衛門が二つの時国
 家を誕生させたのは、保険をかけたようなもので、なかなかの選択であったと思われます。

  なお、近年、時国家の古屋敷遺跡が発掘され、調査研究の進展がまたれ、上時国家は、江戸時代以来、代々大庄屋を務め、名字帯
 刀を許されていましたが、現存する建物は約160年前の江戸末期のものといわれ、代21代当主が建てたものです。
  豪壮、華麗で、農家建築の様式の中に書院造りの手法を採り入れており、完成までに、28年を費やしたといわれ、特に、その1室は、
 いわゆる格天井といわれる天井をもち、大納言としての格式を保ち、ここを嘉永6年(1853)に訪れた幕末の加賀藩主・前田斉泰(なりや
 す)が、「予は中納言である。この部屋は大納言の格式を持っているので入ることはできない」と言ったという逸話が残っています。下時
 国家とともに、今は開放され、訪問客を受け入れています。県の文化財になっています。現在は、21代当主が住んでおります。

  上時国家から約300m離れて、下時国家があります。下時国家は、江戸中期もしくは末期のものといわれます。古い鎌倉時代の書院
 造り様式を持ち、要所に翌檜(あすなろ)の木を用い、堅固な造りで、上時国家に比べて質素で、農家の一般的な特徴が多いといわれ、
 国の重要文化財に指定されています。

  ロッキード裁判の時、田中元首相を裁いた裁判官に時国裁判長がいましたが、彼は、この時国家の出ということで、時の権力者・田中
 元首相を裁いたことで、左遷されてしまいましたが、名門の出の矜持が、圧力にも屈せず、田中を有罪に持ち込んだのでしょう。

  ところで、話は平時忠に戻るが、彼の一族の墓は、珠洲は大谷の集落から海岸を離れて、国道沿いに約2kmほど入った、それも道路
 から少し下った森陰にあり、15基の墓が苔むしてひっそりと建っています。
  その墓を見ると平家物語の「奢る平氏は久しからず」という言葉を思い起こされます。墓は現在、時忠の子孫といわれる則貞家の人た
 ちによって守られています。
  多くの人の口にのぼることもなく、いかにも配流の人の墓にふさわしく、質素で、権勢をほしいままにした大納言の面影はなく、寂しさの
 中にあります。

  墓に近い大谷の集落は、烏川によって作られた狭い平地ですが、住人の大半は時忠ゆかりの深い従者の子孫と言われています。
  頼兼、頼光、頼正、兼正、それに先ほどの則正など、実名を氏としており、俗に大谷十二名と言われている。従者の実名を氏としたの
 は、時国と同様に、平氏系の姓を名乗りつづけることに障害を感じたせいかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 ●本家・上時国家
  石川県輪島市町野町南時国13−4
  Tel/Fax:0768−32−0171
   休館日:年中無休
   開館時間:8:30〜17:30
   料金:大人 500円

  ▼本家上時国家    祖先は、800年前に能登に流された「大納言・平 時忠 ・・・平 清盛 の義弟」と伝えられ、子の「時国」を初代と
  して現在で25代目になります。

   江戸初期から300石の豪農として天領大庄屋を務め、江戸後期に21代当主が現在の巨大で格式高い屋敷を28年かけて建造し、
  現存する近世木造民家では最大級となっています。

   大庄屋屋敷として公用部分と私用部分を分割した構造で、公用部分の中心に大納言格式を示す「縁金折上格天井」の「大納言の間
  (別名 御前の間)」を配しており、広間の襖には、家紋でもある平家定紋の「丸に揚羽蝶」を金箔で描いて連ねています。

   座敷の境上部には両面彫りの欄間を飾り、御前の間の欄間は蜃気楼を描いた珍しいものであり、広い空間を占める土間は、この巨
  大な建物を支える柱・梁組と、萱ぶき大屋根の内側構造を見ることができます。
  ( 総欅造り唐破風の正面玄関も民家では珍しい。)

   私用部分の部屋には、現在は展示品を陳列しており、大庄屋の公務用品、千石船用品、日用品などで、極初期の輪島塗の器は美
  術品として評価が高く、鎌倉風の池泉回遊式庭園は、背後の山を自然に組み込んだ巧みな構成で、素朴ではあるが力強い作風であ
  り、国の名勝に指定されています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  桜がきれいだったので待っている間に風景撮影dす。
 

  <天領庄屋中谷家>  現在休館中
   〒928-0300 石川県鳳珠郡能登町字黒川28-130
   TEL 0768-76-1551
   9:00〜12:00 13:00〜16:00
   大人1,000円 小人500円 (要予約)

   蔵そのものが宝
    母屋から渡り廊下を超えて奥へ進むと、蔵が一つ。中はガランとしています。蔵の中の電気がついた瞬間、はっとしました。半間ごと
   に黒漆塗りの柱があり、また壁にはケヤキの板に本朱が混ざったしっくいが塗られたコントラストの美しさは驚きです。
    実はこの蔵、ただの保管する蔵ではありません。むしろ、造りから言えば、湿度が高いため、保管には向いていないそうです。ここは
   "宝蔵"。宝を入れる蔵ではなく、蔵そのものが宝なのです。蔵の入り口の石造りの3段ある階段の側面には、彫刻が施されていました。
    宝蔵なので、普通は中に人は入らないそうで、万が一母屋が火事になった時に宝蔵に燃え移らないように、渡り廊下のほぞを叩くと
   外れて、渡り廊下が崩れ、母屋と遮断されるようになっているのだそうです。
   
    休館中で残念ながら現在ではもう見ることは出来ませんが、一度見たら忘れられないほど見事な朱塗りの蔵があります。
    20代のころに一度見ましたが、是非もう一度見てみたい蔵の一つです。
 

 ●輪島 2回目の給油
  能登半島周遊でガソリンが2/3位でギリギリ無給油で帰れるかどうかなので、2回目の給油です。
 
  今回も、1円/L 引きでした。
 

 ●能登里山海道 別所岳スカイデッキ(能登ゆめてらす)
  能登有料道路の別所岳サービスエリア内に、七尾湾を一望できる展望台が平成22年4月に完成し、能登半島地震からの復興や能登
 の発展が「夢」のように大きく膨らむようにとの願いを込めて、別所岳スカイデッキ「能登ゆめてらす」と命名されたそうです。
  「能登ゆめてらす」からは、七尾湾に浮かぶの能登島や和倉温泉のほか、晴れた日には立山連峰まで見ることができ、上下線どちら
 のサービスエリアからも「能登ゆめてらす」に行くことが出来ます。
 
  やぎもいる公園があるPAに、お散歩休憩に立ち寄りました。
 

 ●七尾市立中島文化センター  能登演劇堂
  仲代達矢が主宰する無名塾が1985年から毎年石川県鹿島郡中島町(現:七尾市)で合宿していたことが縁で、1995年5月12日に
 開館しました。
  舞台設計を仲代が監修し。プロセニアム・アーチ型の舞台で、舞台後壁が日本唯一の開閉式になっており、野外舞台も設営できる
 そうです。

  石川県七尾市中島町中島上部9番地

  能登演劇堂
   ■演劇に必要な諸設備を備え、かつ舞台後壁に大扉を有し、ホール内外の空間を利用した演出を可能としたプロセニアムステージ
    形式演劇主体ホール。
    収容人員/651席(ワンスロープ型)※仮設張出舞台使用時596席
    固定席/556席
    可動席/95席 (車椅子席/8席含む)他 ファミリーシート有り(8席)
 
  入り口、エントランス付近。
 
  案内表示があります。
 
  見学は1人だけなのに、きちんと演劇堂の設備の電源を入れ案内して頂いたそうです。
 
  奥さんのリクエストで来ましたが、帰りが遅いと車で待っていたら、しっかり見学していたようです。
 

 ●能登島へ
  能登島は、石川県七尾市の七尾湾を塞ぐ形で浮かぶ島。面積46.78km2。周囲長71.9km、一島で一町(能登島町)だったが、2004年
 10月1日合併により七尾市の一部になりました。(能登半島国定公園に含まれています。)
 
  桜並木を楽しみながら橋を渡れば能登島です。(40年ほど前は橋が無く、船で渡ったように記憶しています。)
 

 ●能登島 ガラス美術館  (道の駅 のとじま)
  海を臨む丘の上に光あふれる小宇宙。ガラスと海と対話する能登島ガラス美術館は平成3年にガラス芸術の情報発信基地を目指し
 開館しました。
  まるで宇宙船に迷い込んだかのような館内。ガラスアートと共に風水を取り入れた建物(設計者:毛綱毅廣)や庭があり、屋外にも
 ガラスのオブジェが展示してあり、高台から見渡せる七尾湾を背景に個性的な作品が展示されています。

  ・住所  石川県七尾市能登島向田町125-10
  ・tel   0767-84-1175
  ・営業時間  4月?11月 午前 9:00?午後 5:00 (午後 4:30までに入館)
          12月?3月 午前 9:00?午後 4:30 (午後 4:00までに入館)
  ・定休日   毎月第3火曜日 (祝日の場合その翌日) ※ 8月は無休
          年末年始(12月29日?翌年1月1日)
  ・駐車場   道の駅のとじま共同駐車場   (普通車 250台、バス 10台)
 
  丘の上の美術館まで車で上がり、お母さんとワンコは下りのおさんぽ、お父さんは下の駐車場で待ちます。
 
  道の駅 のとじまの桜も満開です。
 

 ●道の駅 織姫の里なかのと
  能登半島のほぼ中央に位置し、緑豊かな里山・田園風景が広がり、近隣には「石動山」をはじめ「雨の宮古墳群」など、地域の歴史
 文化を今に伝える史跡が多く存在します。
  「道の駅織姫の里なかのと」は国道159号に隣接し、中能登の新鮮な農産物や地元ならではの特産品を販売するほか、フードコート
 では中能登ならではのグルメも味わえます。
  また、情報コーナーでは、中能登町の観光情報や道路情報などを提供するほか、屋外にはドッグランや遊具もあります。

  路線名:国道159号
  所在地:石川県鹿島郡中能登町井田ぬ部10番地1
  電話: 0767-76-8000
 
  石川県にある数少ないドッグランのある道の駅(県内2か所のみ)で、昨日は道の駅 高松を利用したのでこれで制覇出来ました。
 
  出来てまだ新しいので綺麗です。前回は日暮れ後だったのでよくわかりませんでした。
 
  地元のワンコもたくさん遊んでいました。(小型犬エリア、大、中型犬エリアと2つドッグランがあります。)
 
  小型犬エリアではいじめられるパピーがいましたが、「めい」、「まい」は遊び慣れているので大丈夫でした。
 
  西日本は東日本に比べてこう言った施設が少なく、羨ましい限りです。
 

 ●安宅 勧進帳の森
  およそ820年前,源平の戦の後,源義経は,はからずも讒言によって兄頼朝と不仲となり,ついに追われる身となった。
  そして,義経主従は,藤原秀衡を頼り奥州平泉に向った。
  頼朝は,この動きを察知し,各地に関所を設けていた。
  ここはその一つ,富樫左衛門泰家が関守として厳重な警戒に当たっている北陸加賀国安宅の関に,義経主従が差し掛かっていた。
  山伏姿に変装した義経主従。安宅の関を通過しようとした,まさにその時,関守富樫に疑われた義経主従。
  弁慶は,機転で東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧と称し,白紙の勧進帳を読み上げ通過しようとしたところ,義経に似たものが
 いると咎められる。
 そこで弁慶は,主君義経が富樫に疑われていることへの疑念を晴らすため,あろうことか「義経に似ているとは何事か」と金剛杖を持ち,
 義経を打ち据えた。
  富樫は,主君を打ち据えてまでその命を救おうとする弁慶の苦衷を察し,すべてを知った上で,義経主従の通行を許すのであった。
  その後,義経主従が休憩した道林寺において,例え富樫を欺くためとはいえ主君を打ち据えた罪の大きさに,生涯泣いたことのない
 弁慶が頭を垂れて泣き詫びたのだった。
  義経は,弁慶の智謀と自分を思う気持ちに,「機知の働きは天の加護」と感激し,その労を厚くねぎらったという。
 
  桜の公園をおさんぽ
 
  弁慶さんにも会えました。(ハスキーがここに来るなんて当時は考えられなかったでしょうね...)
 
  記念撮影をしてからワンコの晩御飯です。
 

 ●道の駅 越前  越前温泉露天風呂「漁火」
  越前加賀海岸地域の中央部の海岸に位置し、観光への玄関口として、広域的観光ルートのゲートウェイとなっており、 町内、県内の
 特産品等のアンテナショップ、観光案内カウンター、越前温泉露天風呂「漁火」、「越前がにミュージアム」もあります。

  越前温泉露天風呂「漁火」   「道の駅越前」内に併設された露天風呂が自慢の日帰り温泉施設。
   眼下に日本海を眺め、潮騒を聞きながら、のんびりつかれ、昼は日本海が、夕方は夕日が、夜には満天の星空と漁火が雄大なパノ
  ラマを楽しめます。

   名称    越前温泉露天風呂「漁火」(ろてんぶろいさりび)
   住所    福井県丹生郡越前町厨71-335-1
   電話番号  0778-37-2360
   営業時間  平日11:00〜22:00、土日祝日10:00〜22:00
   定休日   毎週火曜日※夏休み期間中は無休、11月〜3月は、第2・第4火曜
   料金    ・露天風呂漁火/大人(中学生以上)510円、小学生300円、幼児(3歳以上)200円
          ・貸切風呂(1時間あたり)/大人(中学生以上)1,020円、小学生610円、幼児(3歳以上)410円
 
  前回、時間がなく奥さんだけ入って、「良かった」というので、訪れました。
  幹線国道から海岸線の道路(一部細い)を走るので、決してアクセスは良いとは言えません。
  前回、「月夜で海面の波が光って綺麗だった」そうですが、今日は残念ながら曇天、お風呂の照明が明るすぎて景色はもう一つでした。
 

 ●道の駅 マキノ逢坂峠
  春は海津大崎の桜、夏はキャンプや水泳、秋はハイキング、冬は温泉やスキーと、自然いっぱいの観光リゾート・マキノ町にあり、朝穫
 りの新鮮野菜や地元の加工品などが所狭しと並び、レストランテラスや直売所からの琵琶湖の眺望は絶景だそうです。
 
  休憩に立ち寄りましたが、さすがに海津大崎そばの道の駅、桜が満開で綺麗でした。
 

 ●海津大崎
  帰りにもう一度立ち寄ってみることにしました。
  すでにイベントは終わっているので路肩の規制もなくなっていましたが、真っ暗な中、桜は相変わらず綺麗に満開です。
  此処から桜前線を追いかけ、能登半島の北端まで行って、戻ってきました。
 
  此処からは湖西道路、名神高速を利用して自宅に帰ります。
 

  <本日の走行>
 

  今回は桜がテーマのお散歩でしたが、いつもよく行く能登半島がお花の季節でいつもと違うきれいな景色を見せてくれました。
  能登半島と言えば夏の海水浴、キャンプなどで夏に行く事が殆どですが、4月のこの季節も景色の表情がとても素晴らしく、来年も
 是非来ようと思います。
 

 


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